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	<title>サンライズ出版 &#187; 街道のまちなみとくらし</title>
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 <title>小野から旧鳥へ宿場の変更</title>
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 <pubDate>Mon, 30 Aug 2010 06:52:31 +0000</pubDate>
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 <description><![CDATA[　慶長５年（1600）関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、江戸と京都を結ぶ重要な街道として東海道と中山道の宿駅の整備を始め、慶長７年（1602）中山道に、公用の継立場にあたる伝馬の制度を定めました。この年から400年を迎え [...]]]></description>
 <content:encoded><![CDATA[<p>　慶長５年（1600）関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、江戸と京都を結ぶ重要な街道として東海道と中山道の宿駅の整備を始め、慶長７年（1602）中山道に、公用の継立場にあたる伝馬の制度を定めました。この年から400年を迎えた平成14年（2002）には、６つの宿場を持つ滋賀県をはじめ街道沿いの各地で400年記念のイベントが大々的に開催されました。<br />
　江戸から63番目の鳥居本宿は、番場（現坂田郡米原町）と高宮の間に位置し、それぞれ約１里１町、１里半の距離があります。下矢倉村からは北国街道へ、南端の百々村からは朝鮮人街道（彦根道）が分岐し、まさに交通の要衝として発展してきました。<br />
　鳥居本に宿場が置かれた時期については、いままでは小野の宿場が宿駅の機能を長年果たしていたと伝わっていましたが、このほど、彦根城博物館の調査によって、慶長８年（1603）に彦根に地割りをするために江戸からやってきた奉行嶋角左衛門が、小野宿で本陣を務める庄兵衛に、鳥居本に宿を移すように命じたという記述が確認されました。<br />
　慶長７年（1602）７月幕府の命によって奈良屋・屋が中山道宿々の駄賃銭を定めた際には、小野村が伝馬継所とされていましたが、翌年には鳥居本に宿が移され、小野で代々本陣を務めていた寺村家が鳥居本宿の本陣を務めるようになったのです。（右上写真文書）<br />
　鎌倉時代の『実暁記』では、守山・武佐・愛知川・番場・醒井・柏原の６宿が登場し、同じく鎌倉時代の『十六夜日記』には守山・野洲川・鏡・小野・醒井の地名が見られ、いずれも、中世の東山道の宿駅として存在し、中山道の宿駅制定後も宿場機能が続きましたが、高宮と鳥居本には、江戸時代になって新しく宿場が設置されました。<br />
　一旦、小野に宿駅を命じた後に、幕府が鳥居本に宿を移すことを命じた背景には、彦根城下町の建設計画と密接なつながりがあったのです。直政の戦功で、佐和山城を拝領した井伊家では、佐和山城を改修することも視野に置きながらも、湖岸に近く、城下町を形成しやすい彦根山に築城することを決め、築城と同時に城下から中山道に出る脇街道のルートについてもこのとき決められたのです。</p>
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 <title>本陣と脇本陣</title>
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 <pubDate>Fri, 30 Jul 2010 06:57:53 +0000</pubDate>
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 <description><![CDATA[　慶長８年、小野から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣を務めていた寺村庄兵衛は、引き続いて明治維新まで鳥居本宿で本陣を務めました。寺村家は、佐々木氏の一族で蒲生郡寺村（現在の蒲生町）に所領があったことから寺村の姓を名乗 [...]]]></description>
 <content:encoded><![CDATA[<p>　慶長８年、小野から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣を務めていた寺村庄兵衛は、引き続いて明治維新まで鳥居本宿で本陣を務めました。寺村家は、佐々木氏の一族で蒲生郡寺村（現在の蒲生町）に所領があったことから寺村の姓を名乗るようになり、六角氏の配下の武士でしたが、六角氏の滅亡後に、寺村行隆・規行親子が小野に住まいし、ここで本陣を務めるようになったと当家の系図が伝えています。病身であることから武士を捨てて本陣を務めるようになった規行には２人の兄弟があり、ともに長浜城主であった山内一豊に仕えています。規行から数えて10代目の義貴の時に、本陣は廃止となりました。<br />
　本陣は、大名や公家・幕府の役人などが宿泊や休息をとった施設で、利用頻度が多かった守山や草津には２軒の本陣がありましたが鳥居本には１軒の本陣が定められていました。鳥居本本陣は合計201帖もある広い屋敷でしたが、昭和12年にはヴォーリズの設計によって和風洋館に建て替えられました。この建物は、和風様式を取り入れたヴォーリズ独特の建築様式を持つ近代化遺産として高く評価されています。本陣の面影は、母屋横の倉庫の門として現存する本陣の門扉に残されています。<br />
　寺村家から一軒おいた隣には脇本陣と問屋を務めた高橋家があります。屋敷は昭和45年に建て替えられていますが、道路沿いの塀にはかつての脇本陣の趣が残ります。脇本陣は高橋家の他に本陣の前にもう１軒ありましたが、早くになくなっています。<br />
　高橋家の表は問屋場としての機能を持ち、街道輸送に必要な馬や人足を常備して、宿場間の物流をスムーズに行うシステムの中に決められた機能を果たしていました。中山道では各宿場に50人の人足と50匹の馬を常備するように決められ、脇本陣の間取り図からは、人足たちがいろりを囲んで暖をとったであろうと想像できる10坪の広い広間が入り口近くにありました。問屋の仕事はかなりの重職で、これを補佐する年寄や庄屋・横目などと呼ばれる人が補佐していました。<br />
　寺村家の文政12年（1829）から天保12年（1841）までの大福帳によると、本陣宿泊客の状況は、13年間に161回3594人が宿泊しています。１年間の利用回数にばらつきがありますが、平均で年間利用回数12.4回、１回の平均利用者数22.3人であったことがわかります。また１回の利用者数の最多は80人で、最小は２人で、実際は50～60人がその収容限度でした。参勤交代の大名の供揃のように200～300人に達すると、全部を本陣に収容することはできず、多い時には156軒の下宿が必要になったようです。<br />
　宿場町時代からの屋号はいまも生活の中にいきていますが、本陣や問屋を務めた寺村家、高橋家は「ホンジ」「トイヤ」と呼ばれ、宿場町ならの呼び名が今に伝わります。</p>
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 <title>街道のなりわい</title>
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 <pubDate>Wed, 30 Jun 2010 07:03:21 +0000</pubDate>
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 <description><![CDATA[
現在の矢倉付近
　鳥居本宿のまちなみの裏には田畑が広がり、住民は農業のほかに人馬継立や旅人の宿泊、飲食物の販売に従事し、旅籠屋は旅人の休泊をうけ、または食物を商う茶店があり、そのほかに商人・職人が少々いたようです。総数 [...]]]></description>
 <content:encoded><![CDATA[<div style='width:205px;float:left;margin:0 10px 10px 0;padding:5px;border:1px solid #dcdcdc;' class="tori-img"><img src="/wp/wp-content/uploads/tori/4_2.jpg" alt="現在の矢倉付近" title="現在の矢倉付近" width="200" height="140" border="0" /><br />
<small>現在の矢倉付近</small></div>
<p>　鳥居本宿のまちなみの裏には田畑が広がり、住民は農業のほかに人馬継立や旅人の宿泊、飲食物の販売に従事し、旅籠屋は旅人の休泊をうけ、または食物を商う茶店があり、そのほかに商人・職人が少々いたようです。総数35軒の旅籠の中には、江戸湯島天神表通り大城屋良助が組織した全国組織の東講商人定宿に３軒の旅籠が加盟しています。<br />
　当時の代表的な産業は「鳥居本の三赤」と称され、合羽・赤玉神教丸そして鳥居本すいかでした。太田南畝が享和２年（1802）に著した『壬戌紀行』では、「この駅にまた雨つつみの合羽をひさぐ家多し。油紙にて合羽をたたみたる形つくりて、合羽所と書しあり。江戸にて合羽屋といへるものの看板の形なり」と記され、当時、現存するような合羽の看板を掲げていたようです。また赤玉神教丸本舗は『近江名所絵図』に店頭での販売の様子が描かれています。鳥居本の三赤も今では、赤玉神教丸だけがその歴史を伝えています。</p>
<h3>大正時代の鳥居本の商いのようす</h3>
<p>〈矢　倉〉雨傘製造、生糸製造、塩屋、豆腐屋、薬屋、塩乾物販売店、荒物屋、大工<br />
〈旧　鳥〉提灯屋、米屋、柿渋屋、牛宿、たばこ製造、菓子屋２軒、豆腐屋、材木屋、駐在所、旅籠２軒、合羽屋５軒、人力車屋５軒、指物師、鍋釜屋、おもちゃ屋、あんま、傘製造、麹屋、わらじ屋、茶販売、八百屋、日用品店、郵便局、小学校<br />
〈下　町〉麹屋、酒屋、箱屋、表具屋、合羽屋５軒、玉突き屋、写真屋、</p>
<p>〈中　町〉役場、合羽５軒、呉服屋、あんま、理髪店、髪結い、人力車屋、大工、指物師、産婆、桶屋、米屋<br />
〈上　町〉合羽４軒、料理屋、麻製造、医院、髪結い、豆腐屋、米屋、下駄屋、表具師、あんま、玉突き<br />
〈百　々〉菓子屋、仕出し、理髪店、髪結い、日用品店、人力車、臼製造、竹箒、油屋、米屋、写真屋、玉突き、網製造<br />
〈南甲田〉三味線糸張り、太鼓張り<br />
〈下矢倉〉休み宿、餅屋</p>
<p>上記は、残された記録を転載したもので、確証はないが鳥居本にも多くの商いがあったことを示しているといえよう。（明治生まれの人の「覚え書帳」より転載）</p>
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 <title>赤玉神教丸</title>
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 <pubDate>Sun, 30 May 2010 07:04:30 +0000</pubDate>
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現在製造販売されている赤玉神教丸
　鳥居本宿有川市郎兵衛家の神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、300年以上の歴史を誇っています。創業は元治元年（1658）と伝わり、「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんに [...]]]></description>
 <content:encoded><![CDATA[<div style='width:205px;float:left;margin:0 10px 10px 0;padding:5px;border:1px solid #dcdcdc;' class="tori-img"><img src="/wp/wp-content/uploads/tori/4_3.jpg" alt="赤玉神教丸" title="赤玉神教丸" width="200" height="136" border="0" /><br />
<small>現在製造販売されている赤玉神教丸</small></div>
<p>　鳥居本宿有川市郎兵衛家の神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、300年以上の歴史を誇っています。創業は元治元年（1658）と伝わり、「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」とうたわれた多賀神社の神教によって調製したことが始まりです。そしてこのことから「神教丸」という名がつきました。多賀の坊宮が全国を巡廻して、多賀参りを勧誘する際、神薬として各地に持ち歩いたのでしょう。<br />
　有川家の先祖は磯野丹波守に仕えた郷士で、鳥居本に居を構えたころは、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で、有川の姓になったといわれます。神教丸は、胡椒・胡黄蓮・苦参・楊梅皮の配剤に寒晒米の溶汁や実胡桃油を調合して製造し、20粒入りを一服として販売されていました。<br />
　有川家では『近江名所図会』に見られるような店舗販売を主に行い、配置売りなどの行商の形態をとりませんでしたから、中山道を往来する旅行者が競って赤玉神教丸を求めたのです。別の販売所としては、享保15年（1730）には大津髭茶屋町に出店しているのが唯一でした。　神教丸の評判が高まると、まがい物が登場する事となり、文化12年（1815）に刊行された『近江名所図会』では、有川家の店頭のようすとともに「此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉といふ。此店多し」と記されているように、「仙教丸」や「神吉丸」という類似した薬を販売した業者がいたことを示しています。有川家では、明和３年（1766）以降に、類似薬の販売差し止め訴訟を起こしています。最初の事件は大津の出店から情報が寄せられたようで、藤屋久兵衛という人が15ヶ所の「取次所」を通じて薬の販売を行ったというのです。鳥居本と大津でしか販売していないはずの神教丸を各地で販売するのはまさに営業妨害であると、当主有川市郎兵衛は病をおして江戸に出向き、交渉の末、営業を差し止め、贋薬や看板・引札などを没収しました。その後明和８年（1771）にも大津に住む油屋庄右衛門との間に訴訟が起こっていますが、京都奉行所から「赤玉　神教丸」は鳥居本の有川市郎兵衛の製法する薬であり、紛らわしい類似の看板や薬銘をいっさい禁じるという決定が下っています。それでも手を変え品を変え、類似品が登場しましたが、その都度交渉をした有川家はいずれの場合も交渉に成功しています。「神教丸　鳥本一朗右衛門製」「江州鳥居本本家　神教丸」「鳥居本本家　神教丸」「延命神教丸」「江州播磨田福岡自右衛門製」など紛らわしい薬を見ることができます。<br />
　有川家本舗では、製薬に従事する職人、販売人、番頭を合せると、その数は40人を超え盛時には80人にも上ったといわれ、戦前までは国内は勿論、アメリカや中国にまで販路を持っていました。現在鳥居本の丸薬といえば神教丸を指しますが、江戸時代に彦根藩が編纂した『淡海木間攫』によると、小野村の「小野丸」や、百々氏が製造を伝えた「百々丸」という丸薬が販売されていました。有川家の建物は寛暦年間（1751～1764）に建てられ、明治11年の明治天皇北国巡幸の時には右手に別棟の建物が増築され御休憩所になりました。</p>
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 <title>鳥居本合羽</title>
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 <pubDate>Fri, 30 Apr 2010 07:06:51 +0000</pubDate>
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 <description><![CDATA[
天保3年創業、戦前まで合羽を製造していた「合羽所　木綿屋」
　鳥居本宿で合羽製造が始まったのは、享保５年（1720）馬場弥五郎の創業であると伝わります。若くして大坂に奉公にでた弥五郎は、当時、需要に追いついていない合羽 [...]]]></description>
 <content:encoded><![CDATA[<div style='width:205px;float:left;margin:0 10px 10px 0;padding:5px;border:1px solid #dcdcdc;' class="tori-img"><img src="/wp/wp-content/uploads/tori/4_4.jpg" alt="合羽所　木綿屋" title="合羽所　木綿屋" width="200" height="172" border="0" /><br />
<small>天保3年創業、戦前まで合羽を製造していた「合羽所　木綿屋」</small></div>
<p>　鳥居本宿で合羽製造が始まったのは、享保５年（1720）馬場弥五郎の創業であると伝わります。若くして大坂に奉公にでた弥五郎は、当時、需要に追いついていない合羽製造の改革を決意し、奉公先の坂田屋の屋号を譲り受けて鳥居本宿で開業し、新しく菜種油を使用していた合羽製造に柿渋を用いることを奨励しましたので、一躍、鳥居本宿で雨具の名声はたかまりました。柿渋は、保温性と防水防湿性に富み、雨の多い木曽路に向かう旅人は、こぞって鳥居本宿場で雨具としての合羽を求めるようになりました。<br />
　鳥居本合羽が赤いのは、柿渋を塗布するときに紅殻を入れたことによるとされます。赤い合羽はとくに上もので、主に北陸方面に販売されました。江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。</p>
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 <title>鳥居本合羽の歴史</title>
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 <pubDate>Tue, 30 Mar 2010 07:08:37 +0000</pubDate>
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 <description><![CDATA[　馬場弥五郎の工夫で、良質の合羽製造を行ってきた鳥居本合羽は、戦後まで、鳥居本の重要な産業でした。元文、寛保年間（1736～1742）の製造業者数は10戸を数え、寛延・宝暦（1749～1763）になると13戸、文化・文政 [...]]]></description>
 <content:encoded><![CDATA[<p>　馬場弥五郎の工夫で、良質の合羽製造を行ってきた鳥居本合羽は、戦後まで、鳥居本の重要な産業でした。元文、寛保年間（1736～1742）の製造業者数は10戸を数え、寛延・宝暦（1749～1763）になると13戸、文化・文政（1804～1829）には15戸に増加したとされます。店頭販売の他、行商、諸候の用達などもおこない、販路の開拓に努めています。維新以降、明治20 年（1887）には同業組合を結成し、時代に即応した規約を設けて事業の振興に努力してきました。<br />
　彦根市史では、「大正初期には同業者20戸従業員数200人を超えるに至った」と記載されていますが、明治20年に設立された日本油脂加工製造組合の資料から、昭和初期の業者数や従業員数を鑑みると従業員が200名に登ったという事実は信じられません。最盛期でも40～50名の従業員で、多くの合羽製造業者は家内従事者を主とした形態であったと考えられます。原材料の協同購入や品質管理などを行ってきた組合も、戦争中の物資統制によって、昭和17年には解散し、日本油紙工業会近畿支部として丸田屋ら数名が加盟しています。<br />
　文化２年（1805）に坂田屋から分家した丸田屋の生産高は鳥居本での首位の座を確保していましたが、昭和31年の火災後には生産が中止となり、丸田屋に次いで昭和32年には住田屋も廃業し、鳥居本合羽の生産は終焉したようです。昔ながらの合羽の看板を掲げる松屋は、文政８年（1825）に丸田屋から分家し、昭和の時代には縄などの製造販売に転じましたが、作業所をはじめ、詳細な家屋配置図が彦根市の調査報告書や上田道三氏の記録画に残りました。</p>
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 <title>合羽の種類</title>
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 <pubDate>Thu, 25 Feb 2010 08:40:56 +0000</pubDate>
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 <description><![CDATA[　雨具として着用した合羽の種類には丸合羽、袖合羽、鎧合羽、頭巾合羽、筒神合羽などがあり、他に子供着合羽、御奉礼みこし用、雨がけ、百姓のゴザ合羽など用途に応じた雨合羽がつくられてきました。赤い鳥居本合羽が有名ですが、明治以 [...]]]></description>
 <content:encoded><![CDATA[<p>　雨具として着用した合羽の種類には丸合羽、袖合羽、鎧合羽、頭巾合羽、筒神合羽などがあり、他に子供着合羽、御奉礼みこし用、雨がけ、百姓のゴザ合羽など用途に応じた雨合羽がつくられてきました。赤い鳥居本合羽が有名ですが、明治以前には黒や藍の合羽も生産されています。雨具の他には、防塵・防湿の効果があることから荷車に掛けるシート状のものや、荷造り・小包用の包装紙、農作業の時に用いる雨ゴザ合羽が製造され、戦時中には軍用の渋紙や合羽の製造も盛んでした。</p>
]]></content:encoded>
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 <title>鳥居本合羽ができるまで</title>
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 <pubDate>Sat, 30 Jan 2010 08:42:15 +0000</pubDate>
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 <description><![CDATA[鳥居本合羽製造の詳しい記録は残っていないが、製造に携わった川崎三郎さんや住田屋の子孫、角田稔さんからの聞き取りと存在する資料によって、概要をまとめることができた。しかし、時代によって材料や製法、用途は大きく異なったものと [...]]]></description>
 <content:encoded><![CDATA[<p>鳥居本合羽製造の詳しい記録は残っていないが、製造に携わった川崎三郎さんや住田屋の子孫、角田稔さんからの聞き取りと存在する資料によって、概要をまとめることができた。しかし、時代によって材料や製法、用途は大きく異なったものと考えられるので、この資料は絶対的なものでないことをお断りしたい。</p>
<h3>柿渋つくり</h3>
<p>渋は土地の青柿を用いて、各家で柿渋を作り大きな桶に貯蔵していました。組合で一括青柿を仕入れていたようですが、正法寺あたりから、青柿を売りに来ていたという老人の証言もありました。鳥居本の運動会は青柿の収穫時期を避けておこなわれたという話も伝わります。合羽作りに不可欠な柿渋作りは、地域社会に大きな影響を及ぼす大切な仕事でしたが、周期的な豊作・不作への防止策に腐心したようです。合羽屋宅には大概、大量の柿渋を貯蔵するための渋倉がありました。<br />
　渋作りに最適な小粒品種の柿は、８月中旬から下旬にかけて赤くなる前に採果され、石臼や米撞き臼で搗いて砕き、適量の水を加えて絞り、大きな桶に入れて貯蔵して発酵させます。発酵が進むほど渋は黒く変色し、長い時間醸成するほどに良質の渋となります。</p>
<h3>用紙の選定</h3>
<p>原材料の紙は、若狭や大阪、あるいは土佐、伊予国産の仙花、後には美濃産のもの購入し、用途に応じた原材料が使用されたようです。最適な紙は和紙ですがマニラ仙花などの洋紙も使用されています。購入した用紙の品質別に等級分けされます。用紙の大きさは１尺×1.5尺の小型と２尺×３尺の大型の２種があったようです。</p>
<h3>小継</h3>
<p>同じ等級の用紙を張り合わせる作業を小継ぎといいます。用途によって張り合わせて必要な大きさに仕上げます。32枚継ぎ、56枚継ぎなどの商品の存在が商品別原価票で確認できます。張り合わせは、大きさを確保すると同時に強度を高める効果もありました。糊の調合にも工夫があったようですが詳細は判明しません。美濃紙を１列に長く張り合わせる小継ぎ作業は１人で行えますが、必要な大きさに整える「大継」は１人では行う事ができず、女性が手伝うことがありました。56枚継ぎともなると306cm×205cmの大きさになりました。</p>
<h3>仕上げ寸法に断裁</h3>
<p>大継ぎ後は、仕上げ寸法どおりに断裁する作業に入ります。ヘラのような包丁で木製の定規を当てて、必要寸法に切り取り、四方は折り曲げられるので３cm程度の余裕を作っています。断裁用の包丁研ぎは子どもの仕事で回転式の砥石で頻繁に研磨しました。</p>
<h3>糸いれ</h3>
<p>仕上がりのサイズによって、糸の太さを変え、コヨリのような柔らかい糸や麻糸などを芯にして紙の四方を折り曲げ、糊で張り合わせます。糸入れは、紙の端をほつれにくくし、製品が破れにくくするための工夫です。大型シートには対角線に糸が入ったものもあります。</p>
<h3>製造業者名の押印</h3>
<p>用紙の準備が終わると墨を塗った版木で商標印を押します。木綿屋に残る仕掛品には「本揉み木綿屋　江州鳥居本宿」という15cm×10cmの捺印がありますが、自家名以外の卸業者名の版木もあり、製造卸をしていたことがわかります。木綿屋では、滋賀県南部から伊勢方面を主たる販売先としていましたが、住田屋では近江用と北陸用の製品を作っていました。押印は製造工程の中でも単純な作業なので、子どもが手伝わされました。</p>
<h3>紙揉み</h3>
<p>渋や油の吸収を良くするために、紙を揉んで皺を入れる作業は大変重要ですから熟練工が担当し、手揉み足揉みで用紙に皺を入れます。柿渋を含むと柔らかくなるので作業は容易になりますが、堅い紙は扱いにくいので、夜露にあててしんなりさせてから紙揉みを行います。十分な紙揉みができていないと最終の油の付着に大きく影響するので気が抜けない作業です。</p>
<h3>渋引き</h3>
<p>紙の準備が終わると渋が塗られます。渋汁に紅殻を入れると発色が赤くなりますが、北陸用合羽は濃い目、近江用は明る目が好まれました。渋引きは手で握る部分がついただけの簡素な20cm位の刷毛でまんべんなく渋を塗り、これを乾かして干すと渋紙の完成です。油を塗布しない渋紙は畳の合い敷きとして重宝されたものです。</p>
<h3>油引き</h3>
<p>渋紙に油を薄く引き、乾かす作業が何回も繰り返されると合羽が完成します。商品の等級によって回数が決められていたようですが、川崎さんの記憶では定かではありません。荏油が主に使用されましたが、戦時中には亜麻に油、松根油が補充用として使用されています。桐油、機械油の特徴を活かし、調合して使用されていました。</p>
<h3>合羽干し</h3>
<p>渋を塗っただけの紙は約１日で乾燥しますが、油引き後は容易には乾燥しません。油引き後２～３日はまだ油が十分浸透しないので、取り入れる時は十分注意をしないと自然発火する危険性があります。合羽屋の朝は早く、太陽が昇ると油引きした商品を干す作業が始まります。雨が降りそうになると急いで取り入れるなど、猶予のない作業が続きます。太陽の熱がある間に何枚も重ねると、余熱で夜間にも乾燥が進みますが、油引き直後だけは、直接重ねないで２つ折りを山形にして乾燥させ、自然発火を防止しました。干場は草を短く整えたり、石を敷き詰めるなど工夫され、風で飛ばされないための重し用の石ころも随所に用意されていました。地面に直接並べるほかに、稲の「はさ掛け」と同様に杭や竹で干場が作られることもありました。干場近くには収納のための小屋があり、夜間や降雨時の保管場所となっていましたが、発火性のある商品の貯蔵は油断できず、夜の見回りは欠かせなかったようです。鳥居本周辺の土地では十分な干場が確保できず大堀あたりに干場用の田畑を借りたり、川原を干場とした業者もありました。旧鳥や中町あたりの合羽屋では、自宅から山田神社までを他人の地所を通ることなく参詣できたという家もあり、広い干場の確保が生産力を左右しました。</p>
<h3>仕上げ加工</h3>
<p>販売地域によって同じ用途でも仕上げの方法が異なり、ひもやハトメの打ち方には変化があり、留め具などの附属品は完成直前に付けて製品が完成します。<br />
　滋賀県油紙工業組合は昭和17年５月に解散、新たに日本加工紙組合に統合されましたが、解散時の組合員は11名。他に陸田屋、沢庄、角田屋らが合羽製造を行っていたようです。</p>
<div style='width:205px;float:left;margin:0 10px 10px 0;padding:5px;border:1px solid #dcdcdc;' class="tori-img"><img src="/wp/wp-content/uploads/tori/4_7.jpg" alt="元合羽屋の看板" title="元合羽屋の看板" width="137" height="200" border="0" /><br />
<small>屋根に掲げられる元合羽屋の看板（松本道昭宅）</small></div>
<h4>解散時の業者名</h4>
<p>松本弥太郎（丸田屋）、北村甚五郎（富田屋）、松本宇之輔（松屋）、鳥角田文右衛門（住田屋）、寺村真三（寺村商店）、岩根嘉右衛門（木綿屋）、成宮嘉右衛門（鳴海屋）、北澤半三郎、西山鉄次郎　ほかに愛知川西澤市治郎や大津市の田中末吉の名前が残ります。<br style="clear:left;" /></p>
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 <title>鳥居本と湖東焼き</title>
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 <pubDate>Wed, 30 Dec 2009 08:46:56 +0000</pubDate>
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現旧鳥集会所。元は「米屋」という旅籠、自然斎の窯があった
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 <content:encoded><![CDATA[<div style='width:205px;float:left;margin:0 10px 10px 0;padding:5px;border:1px solid #dcdcdc;' class="tori-img"><img src="/wp/wp-content/uploads/tori/4_8.jpg" alt="現旧鳥集会所" title="現旧鳥集会所" width="200" height="141" border="0" /><br />
<small>現旧鳥集会所。元は「米屋」という旅籠、自然斎の窯があった</small></div>
<p>　彦根城下の呉服商絹屋半兵衛が始めた湖東焼きは、彦根藩窯となり多くの名作を生み出してきましたが、彦根藩主直亮・直弼の両名は藩窯としての湖東焼きの精度を高めると同時に、一方では領内の殖産振興の一貫として一般市場での販路開拓をめざしていました。<br />
　百姓が農作業の余暇に行う内職として許されていた湖東焼き販売は、彦根藩の販売方法とは異なった手法で成果を上げるようになってきました。そして安政３年（1856）に民間で湖東焼きを行っていた原村の右平次（床山）、鳥居本村の治平（自然斎）、高宮村の善次郎、彦根白壁町（現本町）の松之介（賢友）が、株仲間を結成して彦根藩から鑑札を受けたい旨を願い出ました。松之介以外は、中山道沿いに暮らし、ここで旅人への土産物として湖東焼きの販売を積極的に展開していました。すでに中山道の街道沿いでは、湖東焼きは旅人に人気があり、評価が高まっていたのです。翌年に彦根藩は４人に「赤絵焼付窯元」の免許鑑札を与えました。<br />
　井伊直弼の桜田門外での非業の最期とともに藩窯湖東焼きは終焉しましたが、鳥居本に住まいした自然斎、床山らによってその後も湖東焼きが受け継がれました。彼らが受けた鑑札は譲渡可能で子孫相伝ということになっていましたが、いずれも１代限りで終わり、時代の変遷とともに湖東焼きもその歴史を閉じることとなりました。<br />
＜自然斎＞</p>
<p>現在の旧鳥集会所で旅籠「米屋」を営んでいた治平は号を自然斎といい、円山派の写実的な画風で達者な筆致の優れた作品を多く作りましたが、一方で贋作も多いといわれます。紀州の殿様から酒杯３個の注文に応じて小さな杯に100人の人物を描いたことで視力を害し、やがて街道の往来の減少は、旅籠や湖東焼き販売に大きな影響をおよぼし、やむなく西江州に移り、明治７年（1872）に高島郡安曇川町で亡くなりました。赤絵や色絵に独特な奔放さがみられる作品が多く残ります。<br />
＜床山＞</p>
<p>床山の号を持つ石崎右平次は芹橋９丁目（現芹橋２丁目）の芹橋組の足軽でしたが、中島牧太安泰に狩野派の絵画を習い、湖東焼きの絵付けを覚えました。やがて病気が理由で隠居を願い出て原村に移り住み、ここで赤絵焼付を業としました。床山は自然斎に絵を教えたと伝わり狩野派の正統を踏む図柄は緻密で豪華で、精巧な作品を多く残します。彦根藩へのお抱えの要請もあったのですが、独立して終生、原村で焼き続け、慶応３年（1867）に病死しました。</p>
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 <title>鳥居本から始まった「花緒の生産」</title>
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 <pubDate>Mon, 30 Nov 2009 08:48:43 +0000</pubDate>
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 <content:encoded><![CDATA[<p>　現在では、長浜が花緒の生産額で全国でも優位にありますが、長浜での花緒の製造の嚆矢は鳥居本の寺村信次さんの努力が影響しています。『鳥居本の姿』には「大正時代末期に始まった湖北三郡のビロード生産の大部分が花緒の原材料として、東京、京都、大阪などに移出されていました。昭和初期は大変な不況の時代で滋賀県では産業振興と失業対策として、都会の花緒技術者を招聘して花緒製造の講習会を開催しましたが、短期間で習熟する事ができず、当初の計画は挫折しましたが、この講習会を受講していた寺村信次さんが、昭和2年から数年、先進地大阪で花緒生産の技術を学び、技術を鳥居本に持ち帰り、滋賀県で初めて花緒の生産を始めた」と記されていますが、滋賀県市町村沿革史によると明治13年に甲田村では12件の製造業者があり、年間に700足が生産され彦根に販売されています。寺村さんは、大阪に出張所を設け、新しい技術の習得と職人の養成をおこない、昭和12年には大阪から長浜に本拠を移していることから、今の長浜の花緒生産の始まりに大きな影響を与えたといえるでしょう。昭和25年には、鳥居本の花緒生産は年間約2万足を数えています。当時、10名で鳥居本花緒工業協同組合を組織していましたが、産地を控えた強みのある滋賀県全体で600以上の業者によって滋賀県の重要な特産品の一つとなっていたのです。戦後には、馬場イサブロウさん。寺村信次さん、西山の武田さん、物生山の北村さんが生産を続けていましたが、その後の全国的な和装離れにより、下駄の使用が激減し、すっかり姿を消しました。</p>
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